よく考えてみたら、感覚の麻痺の程度が並外れていたというだけで、ナチズムと程度は違えど、感覚の麻痺はあの時代の他の戦争参加国にも通底していたし、その後の歴史にも見られる要素なのかもしれない。

ナチスの場合、規模があまりにも大きかったから目だったけれど、ひょっとしたら、当時の日本やアメリカにとっても、ぜんぜん他人事じゃなくて、それをナチスは露骨で醜悪な形で見せ付けていただけだったのかもしれない。

人間が、あのようにもなりうるということを示したという点でナチズムの歴史は、今も人類の歴史の上に暗い影を投げかけているのかもしれない。
人間の感覚というものは、場合によってはとことん麻痺して、正気を失ってしまう。
それは、もはや終わった過去とは言い切れないのかもしれない。

アルカイダやヒズボラ、そしてアメリカやイスラエルの、一部の人々や軍や指導者には、同様な感覚の麻痺が今日にも見られるような気がするし、それらに対して批判精神を持たないとしたら、同調している国々(日本も含めて)も、相当に感覚が麻痺しているのかもしれない。

おかしなことには反対できる時に反対して、常に正気を失わないようにする努力が、人間には、特に近代や現代に生きる人間にとっては必要なのかもしれない。
また、いろんな古典や、啓蒙近代などから、人間としての理想や常識やモラルや愛を、繰り返し学ぶことも、常に大事なのかもしれない。

ナチスのあまりにも醜悪な戯画は、過ぎ去ったものではなく、人間が抱える闇と教訓を、極端な形で提示したものと受け止めるべきなのかもしれない。
それを忘れて、単に過去のものだとしてしまったら、ニュルンベルク裁判の教訓を、人間は生かしきれないかもしれない。
番組を見ていて、そう思った。

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